2004年05月20日
『ブラウン バニー』、アメリカと同化したヴィンセント・ギャロの孤独
映画監督ヴィンセント・ギャロは、主人公パド・クレイではない、という、ごく当たり前の事実の確認をしたくなるほど、この映画をめぐる数々の文章には、「監督=主人公」という図式を当てはめないと気が済まないようなものが多いような気がします。というのも、例えば「この映画はヴィンセント・ギャロのナルシスティックなオナニー映画だ!」という意見に見え隠れする、一見正当性を持ってしまいかねない「監督=主人公」という図式が、決定的に的を外しているからです。「ブラウン・バニー」とは、恋愛に対して全くオナニーの域を出ない、孤独で、強烈なエゴイスト=パド・クレイを、監督=ヴィンセント・ギャロが、ほとんど神経症的な真摯さで、“誠実に”撮った映画だと思うのです。恐らく、“「ブラウン・バニー」=監督のオナニー映画”と評する人は、ヴィンセント・ギャロを積極的に嫌いなのかもしれません。多くの同時代的な、(アメリカ的)感性と「ブラウン・バニー」には、大きなズレもあるのでしょう。製作/監督/音楽/撮影/主演と、全てをコントロールせねばならないというオブセッションからくる、病的とも言えるヴィンセント・ギャロの映画へのアプローチは、恐らく全的な肯定か、全的な否定しか生みません。しかし、かような“好き/嫌い”の嗜好性はひとまず置いても、この映画をスキャンダラスでナルシスティックな作品だと断罪するのは決定的な読み違いではないでしょうか。カンヌにおける多くの酷評、アメリカでの猛攻撃が話題づくりに貢献してしまった「ブラウン・バニー」であれば、こういう意見は映画を観なくても言える“つまらない”意見です。「ブラウン・バニー」という映画を語っているつもりが、全く作品外的な“状況”を説明しているに過ぎないと言ったら、本当に“観た”人は怒るのでしょうか。「ブラウン・バニー」が良い映画なのか悪い映画なのかは、あまり問題ではありませんし、誰がどう思ってもかまいません。しかし、「ブラウン・バニー」に関する文章を書く以上、“観た”つもりになって、“観なくても”言えるような言葉を連ねるだけはやめようと思います。いや、これはこの映画だけに関することではないのですが。
さて、この映画は端的に言って、失意のバイクレーサーが車でアメリカを横断する映画、だと言うことが出来ます。ナラティブな面だけに焦点を当てれば単純極まりない。しかし、この“単純だ”という事実は決してこの映画を貶めるものではありません。なぜなら、「ブラウン・バニー」は、観客の感性に直接訴えかける映画で、そこに“複雑さ”は微塵も必要とされていないからです。つまり、ここでの映像に与えられた役割は、観るものの“理解”にではなく、“感動”に直結させることにこそあると言えるでしょう。であるがゆえに、スクリーンには一見退屈な画面が延々と連鎖されていきます。極力複雑さから遠ざかり、飽くまで単純で無愛想な画面の連鎖がそこにはあるのです。車内にカメラがあれば、主人公パド・クレイの横顔と、目の前に続いていく道路を切り取っていくだけ。車外においても、カメラは対象をFIXで見つめ続け、ヴィンセント・ギャロ演じる主人公の姿と、彼をただ受け入れるかのようなアメリカの風景が画面の大半を占める。かつての恋人・デイジーを演じるクロエ・セヴェニーも、合間に挟まれる回想シーンとラスト近くに少し出てくるだけ。言い換えれば、この映画のほとんどが主人公であるパド・クレイとアメリカの風景のみで成り立っています。このことを、監督であるヴィンセント・ギャロは“ミニマル”という言葉で説明しています。「ブラウン・バニー」は、“〜だけ”という言葉の繰り返しにより、全体が構成される映画で、この事実に異論を挟む余地はないでしょう。しかしだからといって、“単純さ”は“分かりやすさ”へとその立場を譲り渡したりはしないのです。例えば、全体を貫く直線的かつ説明的な物語と、視覚的には極度に刺激的でやはり説明的な映像が、観客をある定められた地点に導いていくのが昨今の“ハリウッド大作”(無論、全てではありません)や、それに準じた方法論で撮られた、世界に偏在する“アメリカ映画”(同じく全てではありません)だとするなら、「ブラウン・バニー」のエクストリームなラディカルさは、反ハリウッド的・反アメリカ映画的と言えます。では、以上を踏まえて、「ブラウン・バニー」自体に話を戻してみると、私自身がこの映画のどこにエモーションを見出したのか? という疑問にぶつかります。先述したように、何らかのエモーションがダイレクトに伝わるこの映画において、この疑問に対する答えを説明するのは難しい。なぜなら、この映画を“理解”するという思いこみほど、無益なものは無い気がするからです。よって、以降の文章は、ほとんど悪あがきに終始するでしょう。再度、私が観た「ブラウン・バニー」を思い出してみます。
私が最も感動したシーン、それは、アメリカのどこかの塩田のような場所で、パド・クレイが車からバイクを出し、そしてそのバイクを疾走させるシーンを長回しで捉えたシーンです。カメラは、遠ざかっていくパド・クレイを執拗に追い続けます。彼の姿は次第に小さくなって、最後にはそれが蜃気楼なのか、肉眼で捉えられる現実の姿なのか、わからなくなる。まさしくこの時点で、パド・クレイとアメリカの風景が完全に同化したかのような、奇跡のようなシーンです。パド・クレイとアメリカの風景、どちらが欠けても成立しない「ブラウン・バニー」において、延々と続く道路こそが、バドクレイの孤独であり、抑えきれないエゴでなのではないか。何度も繰り返されるバドクレイの横顔のアップは、そのままアメリカの虚ろな風景であり、纏いつく風(=自然)なのではないか。そんな思いがよぎりました。さらに、延々と続いていく道路といえば、「ブラウン・バニー」におけるほとんどの道路は車内から映されたもので、フロントガラスというフィルターを介して切り取られていました。そして、あのフロントガラスには、雨が乾いた後のような汚れが付着していました。では、なぜ道路は車内から映されねばならなかったのでしょう。想像するに、あの汚れたフロントガラスを介した風景こそが、過去に囚われたパド・クレイの視線そのものだったのではないか、と。雨(=過去)に打たれたまま、拭き取られる事もなくなく放置されたままのフロントガラスと、恋人に先立たれた事実を、過去として受け入れられず目をつぶるパド・クレイ。ここでは、風景とパド・クレイとの境界線があっさり破棄され、互いに過去と闘っている、そんな気がしました。似たような境界線の破棄は、ラスト近く、モーテルでのシークエンスにも見受けられます。その境界線とは、現実と幻想の境界線に他なりません。かつての恋人・デイジーは確かにスクリーンに映っている。すでに亡くなっているはずの彼女なのに、カメラは、幾度と無く彼女の手や足のクローズアップを映していました。まるで現実にそこに居るかのように。その後、それら全てはパド・クレイの幻想だと分かった時、やはりここでも現実と幻想の曖昧な境界線は溶けてなくなっていたことに気がつきます。境界線が溶解すること、過去と現在の差異を認めないこと。私はここに、「ブラウン・バニー」の主題を見ました。
アルチュール・ランボーは、永遠を、太陽が空に溶け込むのを、見つけました。あまりに有名な「地獄の季節」にあるこのフレイズを持ち出したのは、いささか短絡的かもしれませんが、反復され、またその反復を繰り返し、さらに一定のリズムと化した反復もまた反復されるしかないスクリーン上のパド・クレイの行為が、終わることのない“永遠”という一語を想起させたからです。前述した塩田におけるシークエンスでは、パド・クレイが“太陽と空に溶け込”んでいた、といえない事もありません。そして、ラストシーンがまたもやフロントガラスに切り取られた道路で終わっていたという事実が、この思いを強めました。この詩が表しているランボー自身の感覚は知る由もありませんし、お門違いといわれてもしょうがないのですが、パド・クレイはそんな終わらない道路をノロノロと進んで行くしかないのだと思い、そこにいくらかでも“共感”めいた感情を持ってしまった私は、すでに「ブラウン・バニー」を絶賛することしか出来ません。この映画に掴まれてしまい、もはや逃げ場などなくなった、ということでしょうか。そう考えると、あれこれ並べた上記の文章も、不毛な文章でしかないないのかもしれません。それならば今は、その事実をグっと飲み込むしかないと思っています。
最後に、これまでの文章で、ラストの“衝撃的な”部分にまったく触れなかったのは、私なりの倫理というか、意地のようなものです。それにしてもあのシーンは“衝撃的な”というほどのことはなくて、“別段悪くない”という程度のシーンだったと思うのですが、これも個人の感想に過ぎません。それでも一つだけ言うなら、ドゥシャン・マカヴェイエフやジョン・ウォーターズの記憶はそれほど簡単になくなりはしないし、センセーショナルな画面だけを求めて1800円払うくらいなら、このサイトから数秒後に飛べる世界を彷徨うほうがよほど気が利いていると思うのです。
2004年05月20日 17:37 | 邦題:は行
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Excerpt: 【原題】The Brown Bunny 【制作年】2003 【制作国】アメリカ 【監督】ヴィンセント・ギャロ 【脚本】ヴィンセント・ギャロ 【編集】ヴィンセント・ギャロ 【美術】ヴィンセント・ギャロ 【衣装】ヴィンセント・ギャロ 【ヘアメイク】ヴィンセント・ギャロ 【主なキ
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>0 1/2様
はじめまして。以前、このページにリンクを張っていただいた時、いろいろと興味深く読ませていただきました。扱われている映画が私の好みと似ていたもので。
語る視点も独特ですね。
『ブラウンバニー』のDVDは私も購入しました。コメンタリー、かなり笑えますね。恨み言をブツブツ言う姿が、ギャロそのものなのだと思います。常に後悔しているようなそんな印象です。
今後ともよろしくです。
Posted by: [M] : 2005年03月11日 13:53